日本における
リテール事業の復活

ゼロからヒーローになるまでの道のり

Photo: Koji Sashara/AP/TT.
Photo: Koji Sashara/AP/TT.

2000年代初頭。イケアが最初に日本での事業展開に失敗してから約20年が過ぎていました。1986年に経験した盛大な失敗は、イケアに関わる人々の記憶にいまだ強く残ったまま。再挑戦を試みるには、細心の注意を払い、謙虚さを保って行動することが必要でした。

1回目の挑戦が失敗した原因は、イケアの資本不足から、日本の社会に対する深刻な理解の欠如まで多岐にわたりました。狭い住空間(Small space living)で暮らす都会の住人に、3人用のソファや背の高い本棚を販売するのは非常に難しいことだと、イケアが気づくのはずっと後になってから。お客さまが購入した家具を、お客さま自身に家まで運ばせ、組み立ててもらう……多くの日本人はこれを、失礼で不愉快なことだと感じたのです。

2005年頃にイケアストア1号店をオープンする予定でしたが、イングヴァル・カンプラードは当時のイケアの責任者であるアンダッシュ・ダルヴィッグに手紙を書き、焦りは禁物だと警告します。イングヴァルは日本のことを、「特に品質の面で、多くの配慮を必要とする特別な市場」だと考えていました。 また、1970年代にイングヴァル自身が経験したことを根拠に、アンダッシュたちが「正しくスタートを切ることが大切だ。前回は最初の時点で、既に大きな失敗をしていたんだから」とも書いています。 イングヴァルは、サービスレベルを「かなりの程度」引き上げるという点において、イケアが日本から学ぶべきことは大いにあると考えたのです。

ピンクのスーツを着た女性、ダークスーツを着た男性、グレーのスーツを着た女性の身なりのいい3人が、それぞれ地面に鍬を入れる。
日本で最初のイケアストアの1つを建設するため、地鎮祭で鍬入れの儀を行う、当時のイケア・ジャパンCEOのトミー・クルベリ、2005年。左はスウェーデンのヴィクトリア皇太子殿下、右は憲仁親王妃久子殿下。
黒いスーツの男性、トミー・クルベリが、高い帽子に青い絹の着物姿の神主に榊の枝を手渡す様子。
地鎮祭では2人の神主による神道式の神事が執り行われました。建設予定地を「祓い清め」、イケアストアへの祝福と商売繁盛を祈願しました。ここではトミー・クルベリが、神主の1人にトラディショナルな祭具である榊の枝を手渡しています。
木製のボウルから酒を飲む身なりのいい4人。ダークスーツを着た男性2人、ピンクのスーツを着た女性、グレーのスーツを着た女性。
元駐スウェーデン日本国大使のMatano氏、ヴィクトリア皇太子殿下、憲仁親王妃久子殿下、イケア・ジャパンCEOのトミー・クルベリが、鍬入れの儀のために特別に作られた手彫りの木製ボウルで日本酒を酌み交わす様子。
ダークスーツにネクタイ姿の男性がホットドッグにかぶりつく様子。その後ろには笑顔の日本人シェフとイケアの看板が見える。
地鎮祭の後にはもちろん、イケアのホットドッグが振る舞われました。お腹をすかせたトミー・クルベリの後ろに写っているのは大久保清一シェフ。東京でスウェーデン料理を出すレストラン「リラ・ダーラナ」を経営し、数十年にわたり伝統的なスウェーデン料理をつくり続けています。

家以外ならどこへでも

2002年には既に、イケアのベテランコワーカーであるゴードン・グスタフソンが来日し、新店舗の準備を始めていました。同じ頃、イケアは1988年から日本に在住のビジネスアドバイザー、トミー・クルベリを採用します。トミーは、日本人は「世界で最も品質にこだわる顧客」であると話し、イケアにゆっくりと物事を進めるように提案します。 いずれにしても、ゴードンとトミーの2人ともが、今こそ日本市場に参入するタイミングだと感じていました。トミーはよく、1回目の挑戦が失敗に終わった原因について、当時の日本ではまだイケアを受け入れるための下地が整っていなかった上、イケアにも日本に進出するための準備ができていなかったためだと話していました。

イケアの文字が入った黄色いシャツを着ているメガネをかけた笑顔の男性、ゴードン・グスタフソン。
ゴードン・グスタフソンは、中国の上海でストアマネジャーを務めたあと、2002年に新しいイケアストアをオープンするために来日しました。

1986年以降の日本社会は、イケアにとって有益な方向へと大きく変わり始めていました。低価格に対する人々の考え方は多少和らぎ、低価格は必ずしも低品質を表す言葉ではなくなっていました。若い世代の日本人なら、自分自身で家具を組み立ててもかまわない、と考える人さえいるかもしれません。しかし一般的な価値観では、家はいまだに、寝る場所、持ち物をしまっておく場所でしかありませんでした。トミーによれば、当時の日本で最も重要なのは、家ではなくオフィスだったそうです。「日本人にとっての家とは、風呂に入って眠るだけの、自分の身体を置いておく駐車場のような存在でした」とトミーは話します。人々の家具への関心はもとから低く、多くの人々にとっての家具の購入とは、人生で一度、結婚するときにだけ行うことでした。

長い間にわたり日本人のライフスタイルを築き上げてきたのは、長時間労働と狭い住空間(Small space living)での暮らしでした。労働者の大半を占めるのは男性で、仕事が終わってからまっすぐ家に帰ることはほとんどなく、帰宅する前に同僚と飲みに行くのが当たり前でした。また家にいて子どもを育てる女性の多くが、公園や、大型店の子ども用品売り場で時間を過ごす傾向にありました。イケアの事業コンセプトは、人々がより快適な家での暮らしを実現するお手伝いをすること。イケアにとって、日本市場は真の挑戦となることでしょう。

小さな工具やネジがしまわれているウォールシェルフの前で、白い長テーブルの横に座る黒髪の男性。
イケアのコワーカーたちは、日本の家を何百軒も訪問しました。その結果、価格とデザインの両面、特に整理と収納に関して、イケアが提案できることがあると確信したのです。
キッチンのダイニングテーブルの横に座る小さな子どもと、その後ろで洗い物や片付けをする女性と男性。
イケアのホームビジット(家への訪問)にて。Toshiroとパートナーがディナーの片付けをしている間、息子はテーブルにとどまっています。
フロアデッキの床に座り、大きな線路のおもちゃで遊んでいる小さな子ども。
日本において子どもは重要な存在であり、生活が子どもを中心に回ることも珍しくありません。
上から見たダイニングテーブル。食べ物が盛り付けられた4つのトレイと、野菜の入ったいくつかの小さいボウル。
キッチンやダイニングスペースは、インテリアデザイナーが可能性を見出したエリアの1つです。日本のキッチンでは一般的でも、イケアの商品展開にはない家具として、家具と壁の隙間に収まるような幅の狭いキッチンワゴンが挙げられます。

学びに満ちた訪問

イケアは日本でのキャンペーンとして、東京に住む単身者や子どものいる家族、都会的な若いカップル、そして郊外で暮らす人々の家を100軒以上訪問しました。専門家たちは巻尺を手にして家々の床を這い回り、ワードローブやキッチン棚の中を隅から隅まで観察し、イケアが初めて目にする新しいバスルームのソリューションや、ビルトインワードローブ、つまり押入れのことを記録しました。

専門家たちは、日本の家を撮影した4万枚を超える写真の調査も行いました。その結果、ほとんどの家は天井が低く、壁は布地で覆われているか、住人がドリルなどで穴を開けることを防ぐためにザラザラした表面になっていることがわかったのです。バルコニーはほとんどの場合、洗濯機を置いたり、洗濯物や布団を干すスペースとして使われていました。コンセントの数は少なく、照明器具もあまり置かれていません。家の明かりは、天井に設置された強力な照明1つでまかなうのが一般的でした。

イケアは早くから、照明器具、キッチン用品、食器、子ども用家具といった商品に大きな可能性を見出していました。学校へ通う年齢の子どもには、たいてい専用の勉強部屋を持たせる、と親たちは話します。また専門家たちは、ほとんどの家はあまり整理整頓されておらず、「物が非常に多い」ことを指摘しました。 おしゃれなキャビネットや引き戸の後ろには、しばしば衣服などのさまざまな物が積み重なる山が隠れていました。

奥行きのある大きなワードローブは、収納ボックスと金属製のバスケットで整理整頓されている。手前には和紙の大きなランプがある。
日本の家にある押入れ、このトラディショナルなスタイルのビルトインワードローブに対応する商品展開が必要だということに、イケアはすぐ気づきました。

「スマートな整理整頓と収納には、大きなニーズがあることがわかりました」と、クリストファー・ビンズは当時を振り返ります。彼は、日本でホームビジット(家への訪問)が行われはじめた初期に家の訪問を担当し、競合他社の店舗を調査していました。またクリストファーは、2000年代初頭に「日本に住みたいですか?」という見出しの広告に魅了された、何千人ものスウェーデン人の1人でもありました。

当時イケアでは、日本語を話し、スウェーデンと日本の両方のカルチャーに精通しているスウェーデン人を探していました。選ばれた人々は、YPP(ヤング・ポテンシャル・プログラム)と呼ばれる新しい取り組みのもと、日本のイケアストアでアンバサダーとして活動することになります。

20歳のときに神戸で日本語を学んだクリストファーは、言語のテストと面接を経て、30人ほどの仲間とともにアンバサダーに選ばれました。現在ではインドのイケア代表を務めているアンナ・オーリンも、YPPで採用されたメンバーの1人です。彼女は1990年代初頭から日本に住み、日本人男性と結婚していました。彼女はすぐに東京のミニオフィスに配属され、採用に分析、競合他社の調査、ポジショニングまであらゆる分野を経験しました。

緑の植物がある壁の前に立つ、青いブラウスを着た黒髪の女性、谷川 舞。
イケアを1から学ぶため、谷川 舞は中国とオーストラリアの店舗に派遣されました。

YPPに選ばれた全員が、語学、茶道、武道、テレビゲーム、マンガ、ファッションなど、多種多様な趣味を楽しみながら日本で暮らしていました。また、日本で育ちながら、さまざまな理由でスウェーデンとの強いつながりを持つ人もいました。彼らは現地のコワーカーと協力して、イケアの成功のために力を尽くしました。

現在Country Home Furnishing & Retail Design Managerを務める谷川 舞は、2004年に20歳でイケアに入社しました。当時の彼女にとっては初めての仕事です。舞は、その後自分の上司になる、年上のスウェーデン人男性との面接を今でもよく覚えています。「まだ仕事の経験がまったくなかったので、緊張していました。でも、彼から主に聞かれたことは、私の価値観について、そして私がどんな人間で、将来なにをやりたいのかについてでした。彼は面接の最後に、私のことを信頼し、これからもサポートすると言ってくれました。おかげで私は、勤務初日からイケアのことが大好きになったんです!」

笑顔で黒縁の眼鏡をかけている、金髪の女性と男性と、青いフリースのセーターを着た小さな金髪の男の子。
カミラとクリストファー・ビンズ夫妻は、2004年から息子と一緒に東京に住みはじめ、そこで6年間生活しました。現在はエルムフルトのイケアで働いていますが、日本での生活が恋しくなることもあるそうです。
スタッフ用のイケアユニフォームを着たハッピーな人々が座って並ぶ集合写真。
IKEA港北で当時ストアマネジャーを務めたクリストファー・ビンズと、そのコワーカーたち。

日本とスウェーデンで新しく採用された人々は、まず海外に派遣され、中国、オーストラリア、アメリカなどをはじめとする国の店舗でイケアについて学ぶことにります。スウェーデンに残ったのは、クリストファーを含む、幼い子どもを持つ数人だけでした。「しかし、イケアについて学ぶことにかけては、スウェーデンのストックホルムにあるクンゲス・クルヴァに勝る場所はありませんでした」とクリストファーは話します。彼は2005年まで実務経験を積んだあと、当時妊娠中だったパートナーのカミラとともに日本へと渡りました。

端に「SKI DOME(スキードーム)」の文字が入った、巨大な鉄骨構造の建築物。手前には交通量の多い高速道路が見える。
2002年、千葉県の船橋にある屋内スキードームが閉鎖されました。イケアはその土地を買い取り、跡地に店舗を建設します。写真:Yoshinori Kuwahara
ブルーとイエローの大きなイケア倉庫の前でサイクリングする2人の女性。
2006年、船橋で大々的にオープンしたIKEA Tokyo-Bay。35,000人ものお客さまが店舗を訪れました。

スキー場からイケアストアへ

最初の店舗は、千葉県の船橋で2002年に閉鎖された、世界最大の人工スキー場の跡地に建設される予定でした。人口密度の高い都市で建設作業中に発生する粉塵に対処するため、日本では着工の数ヶ月前から、地面の土を湿らせて環境を整えます。時間を節約したかったイケアは、土を湿らせる代わりに芝生を植えることにしましたが、これは失敗でした。珍しい渡り鳥の大群が芝生に集まり、建設予定の敷地に住み着いて巣を作りはじめたのです。工事の着工は、鳥たちが移動を終えるまで延期されることになりました。しかしその代わり、イケアは準備に数ヶ月の余裕を持てることになります。

大きなノコギリを誇らしげに持ち上げるハッピーな男性2人の前に、2つに切断された大きな丸太が横たわっている。
イケアストアのグランドオープンでは、ストアマネジャーのゴードン・グスタフソンと船橋市長の藤代 孝七氏が協力して丸太を切断しました。トミー・クルベリと、当時イケアでCEOを務めたアンダッシュ・ダルヴィッグが拍手を送っています。写真:津野義和/AFP/テレプリンター

2006年4月24日、千葉県に店舗面積4万平方メートルのイケアストアがオープン。ストックホルムのクンゲス・クルヴァに次ぐ、世界で2番目に大きな店舗です。オープン前に東京中で展開された広告キャンペーンでは、家と子どもこそがなによりも大切な存在である、という価値観がアピールされました。「家とは最も大切な場所」、「今日、子どもの顔を見ましたか?」、「家で過ごそう」、「子どもと一緒に遊んでいますか?」といったメッセージの数々は、多くの人々を刺激しました。まるで仕事に行くことに反対されているようだと感じる人さえいたのです!実際に複数の地下鉄会社が、自社の駅に広告を出すことを拒否しました。それでも、イケアにとっては十分満足できる宣伝効果がありました。

長い階段とエスカレーター、そしてその下の店舗内フロアに立つ、スタッフ用のイケアユニフォームを着た大勢の人々。
2006年、イケアストアのグランドオープン時のコワーカーたち。YPP(ヤング・ポテンシャル・プログラム)の一員として採用された地元の人々と、日本とのつながりが強いスウェーデン人たち。
ブルーとイエローの大きなイケアストアを囲むように、黒髪の人々が長い列をつくっている。
当時はIKEA船橋と呼ばれていたIKEA Tokyo-Bay。店舗の外に長蛇の列ができています。その後すぐ、さらに5店舗がオープンし、お客さまのラッシュが続きます。あまりの混雑に、行列に2時間並ばなければ入店できないこともありました。
小さな赤いソファと2脚の白いハンギングチェアを使用し、スモールスペースの中に構築された明るい色調の室内インテリア。
2006年のグランドオープンにあたり、インテリアデザイナーは店舗内に約70箇所のルームセッティングを制作しました。写真:ダニエル・ルーク/AFP/テレプリンター

店舗内には、スウェーデン人と日本人のインテリアデザイナーが日本の暮らしに合わせて整えた、約70箇所のショールームが設置されました。通常、イケアのショールームは約4平方メートルの広さで設計されますが、日本では畳を基準にしてコーディネートします。1部屋あたり4.5畳、つまり3平方メートル程度の空間に、コンパクトなホームライブラリーからゲーマーのための創造的な家具まで、あらゆるものが展示されました。

約30平方メートルの広さがあるアパートを再現した4つのショールームでは、スマートなシェルフシステム、収納付きのスツールやベッドなど、家族向けの家具や整理整頓の例を提案しました。カスタマーサービスマネジャーの小佐井 彩によれば、ショールームには和風のアレンジが加えられ、壁は明るい色に塗られていたようです。「しばらく後に、壁を白とベージュに塗り変えました。その後、お客さまが明るい色使いに慣れてきた頃を見計らって、また明るい色に戻したんです」。

「イケア 4.5 ミュージアム」の文字が入った木製フレームの室内インテリア。室内の壁に沿って、本棚と小さな籐製の家具がある。
2006年のグランドオープンでは、4.5畳、約3平方メートルの空間を使って演出されたショールームの数々がお客さまにインスピレーションを与えました。リビングルームからコンパクトなホームライブラリーまで揃っています。写真:ダニエル・ルーク/AFP/テレプリンター

大混雑と長い行列

オープン初日には、35,000人ものお客さまが訪れました。のちに横浜のIKEA港北で百貨店での販売事業にも携わるクリストファー・ビンズは、日本とスウェーデン、それぞれの顧客の違いに大きく心を動かされました。「大変な混雑にもかかわらず、なにもかもが落ち着いていて、管理が行き届いていました。スウェーデンのクンゲス・クルヴァにある店舗で同様のラッシュがあったときには、大混乱になりました。商品が間違った売り場に置かれていたり、セルフサービスエリアには空箱がそこらじゅうに放置されていたりと、めちゃくちゃな状況でした。一方日本では、小さな子どもたちですら、きちんと靴を脱いでからショールームに入っていました」。

日本で求められる高いレベルのサービスを実現するため、他の国で展開するイケアストアよりも多くのコワーカーを採用しましたが、イケアの基本的な戦略の一部は、日本でもそのまま適用されました。たとえば、お客さまに声をかけられるのを待つのではなく、こちらから積極的にお手伝いを申し出ること。日本のお客さまは驚きましたが、日本人のコワーカーにとっても、これは大きな変化となりました。来店するお客さまを迎える際に「いらっしゃいませ、お客さま」ではなく「こんにちは、みなさん」と言うことは、お客さまに失礼になるのではないかと不安になるコワーカーもいましたが、結局お客さまをいい意味で最も驚かせたのは、イケアの低価格でした。

“週末には多くのお客さまがイケアを訪れ、行列に2時間並んでようやく入店できるようなときもありました。”

2004年に採用された多くの新卒社員のうちの1人である村田 有紀は、イケアストアのオープンに先立ってイケアの考え方を学ぼうと努めていました。彼女は当時の不思議な感覚を振り返ります。「他の国のイケアでインターンをした経験はあったのですが、日本のお客さまにあのような形で声をかけるのは、とても勇気がいることでした。でも同時に、どこか解放されたような気分も味わっていました!」

多くの商品が完売を記録し、2008年にはさらに3店舗がオープン。お客さまのラッシュはとどまることなく続きました。「週末には多くのお客さまがイケアを訪れ、行列に2時間並んでようやく入店できるようなときもありました。道路は大渋滞になり、非常に混雑する時間帯や行列のできる時間帯をお知らせするための、専用の電話回線が開設されるほどでした」と、日本の顧客・消費者調査を統括する小佐井 彩は話します。

赤い金属製のソファに座る青いブラウス姿の黒髪の女性、小佐井 彩。
「コワーカーの半数以上が女性で、それも管理職として働いているというのは、日本ではとても珍しいことです」と小佐井 彩は話します。「イケアには自社の保育園もあり、勤務時間と同じ時間帯に開園します。小さな子どもを持つ母親でも、家を離れて働きに出ることができるのです」。

2006年のグランドオープンには、イケアの創業者であるイングヴァル・カンプラード本人が訪れ、驚く日本のコワーカーたちにハグと握手で挨拶しました。当時ショップフロアで働いていた彩も、イングヴァルと直接握手を交わしました。「はっきり覚えているのは、握手した彼の手がとても大きかったことと、彼がコワーカーたちとハグをして回っていたことです。とても嬉しかった!」。 彩のコワーカーである朝山 玉枝がいまだに覚えているのは、グランドオープンに顔を出したイングヴァルが、植木鉢の土が乾いていることに気がつき、すぐに水を与えるよう指示されたことです。

赤と白のチェックのシャツを着たダークブロンドの女性、朝山 玉枝が、緑の植物がある壁の前に笑顔で座っている。
朝山 玉枝は2005年にイケアに入社し、現在は地域の人々やコミュニティと協力して広報活動を行っています。

配送サービスと多くのリターン

イケアは、商品の配送や組立てはある程度お客さま自身にやってもらうというグローバル戦略を、まだ諦めてはいませんでした。しかし、日本では代わりの戦略が求められていたため、お客さまが購入した小物の商品を家まで届ける、「手ぶらdeボックス」という配送サービスを導入し、家具のような大型商品も配送に対応しました。当時、他の国のイケアストアではあまり配送への需要がありませんでしたが、日本では事情が違っていたのです。ほとんどのお客さまが宅配サービスを利用し、家具の組立てサービスも需要がありました。

デジタル数字が表示されている車輪付きの黒いボックスが、ハイテク倉庫のトラック上を動き回っている。
2006年以来、イケア・ジャパンは、配送とピックアップサービスの質を向上するミッションに取り組み続けています。その重要な一歩となるのが、2023年11月22日にIKEA Tokyo-Bayで導入された画期的なシステム、AutoStore(オートストア)です。
大量のぬいぐるみを積んだショッピングカートを押しながら子ども用品売り場を歩く黒髪のコワーカー。
小物配送サービスの商品は、以前は店舗内の売り場から手作業でピックアップしていました。
グレーのプラスチックボックス入り、デジタル数字の表示と車輪付きの黒いボックスが金属製のトラック上を動く様子のクローズアップ。
キャンドルホルダーからぬいぐるみまであらゆる小物配送サービスの商品を、数千個の高密度自動保管倉庫からピッキングロボットが正確にピックアップすることで、作業効率の向上が可能になります。
黒髪のイケアのコワーカーが、自動化されたシステムでボックスの配送をチェックし、コンピューターのスクリーンを確認している。
コワーカーが処理する注文内容に従い、ピッキングロボットが自動的に商品をピックアップすることで、配送時間の短縮や精度の向上、快適な作業環境を実現することができます。
黒髪のイケアのコワーカーが茶色のダンボールに小物を詰め、別のコワーカーはボックスとコンピューターのスクリーンをチェックする。
最終的な品質管理には人の手が欠かせませんが、ピッキングの作業効率が約8倍に向上したことで、コワーカーがお客さまのお手伝いをしたり、インスピレーションを共有したりする時間をより多く確保できるようになりました。配送プロセスの大部分を自動化することが、お客さまの実店舗体験の向上につながっているのです。

「お客さまにイケアのコンセプトが伝わらなかったのは、お客さま自身にそういった価値観に触れた経験がなかったからです」と、ホームファニッシング&リテールデザインマネジャーの谷川 舞は話します。イケアは自分で家具を組み立てることを「家族で楽しく行うアクティビティ」として演出しました。 家でチェアを組み立て、一緒に家をつくることで、家族の結びつきはより強まるはず。しかし、1974年当時に比べると2006年の反発は少なかったとはいえ、イケアの基本理念の1つであるDIYのコンセプトを、日本に定着させることまでは達成できませんでした。

階段の吹き抜け、出入り口、エレベーターの高さと回転半径の測定方法を説明する4枚の図面。
日本の階段や廊下は幅が狭いことが多いため、家具を搬入する際にどこの高さや回転半径を測るべきか、特別な説明書がつくられました。

失敗から学んだこと

綿密なプランニングと事前準備にもかかわらず、イケアは最初の数年で多くの新しい学びを得ることになりました。配送システムはもちろん、幅の狭いドアや小さなエレベーターを使って家具を搬入しなければならないことも、頭の痛い問題でした。クリストファーは、初期には多くの返品があったと話します。「購入する家具が家のサイズに合うかどうかを事前に確認してもらうため、お客さまが自分でエレベーターのサイズや家の天井の高さを測れるように、正確な説明書を作成する必要がありました。また、組立て説明書にも一部手を加えなければなりませんでした。たとえば、ワードローブは横に寝かせて組み立てるだけではなく、直立させた状態で組み立てなければならない場合があります。お客さまが自力でワードローブを起こせない状況も想定していたからです。

同様に、日本人のコワーカーたちも独自の取り組みを多く考え出しました。ある日、クリストファーは、いつも店舗の入り口にぐちゃぐちゃになって置かれていたイエローバッグが、丁寧にたたまれて、きれいに積み上げられていることに気づきます。またレストランの洗い場では、ある若い男性のコワーカーが、ほとんどすべての皿の上に食べ残しのポテトが1つ乗っていることに気づきます。「彼は、提供するポテトの量を1つ減らすことを提案したんです」とクリストファーは話します。「そうすることで、食品廃棄物が減り、予算のムダも減らすことができました。イケアらしいソリューションです!」。

ショートパンツに白いニーソックス、黒い靴の人物が、「WET GRASS」と白字で書かれた緑色の手織りラグの上に立っている。
2018年、ヴァージル・アブローがデザインした「MARKERAD/マルケラッド」コレクションが東京で先行発売されました。購入希望のお客さまによる長い行列ができたため、イケアはすぐにチケットシステムの導入を決め、商品の販売数を1人1点に制限しました。
サメの着ぐるみを着た2人が、壁にイケアの看板がかかった小さな木製トレーラーの前に立っている。
Tiny Home(タイニーホーム)キャンペーンに登場したぬいぐるみのBLÅHAJ/ブローハイは、イケアの協力のもと、限られたスペースでも快適に暮らせることを世界に向けてアピールしました。イケア・ジャパンは2006年以来、プロモーションや広告において従来とは異なるアプローチを行い、非常に注目を集めています。
ロフトベッドの下にあるデスクの横に立つ、サメの着ぐるみとスーツを着た人物。
2021年、イケア・ジャパンはTiny Homeキャンペーンのために、東京の新宿に10平方メートルのアパートを用意しました。この小さな家は、月額99円(約80ユーロセント)でIKEA Familyのメンバーに貸し出されました。

商品展開をカスタマイズする

2006年には既に、日本での商品展開には多少手が加えられていました。当時、他の国では非常に人気のあった3人掛けソファや大型のワードローブは、日本ではあまり取り扱っていなかったのです。1号店では、通常は1万点ある商品のラインナップを絞り込みます。数年後にはイケア・ジャパンが日本の家に最適だと考える商品だけを残し、商品数を7,500点にまで減らしました。本棚やワードローブなど、一部商品の高さをより低くしました。イケアは、他のどの地域でも行わなかったレベルでの調整を試みたのです。

イケア・ジャパンは2006年以来、デモクラティックデザインが日本の家での暮らしをより快適にすることを伝えるため、熱心な取り組みを続けています。Country Home Furnishing & Retail Design Managerの谷川 舞は、「狭い住空間(Small space living)での暮らしにおいて最も優先される要素は、フレキシブルな機能とスマートなソリューションです」と話します。人気のワゴンシリーズRÅSKOG/ロースコグの小型版であるRÅSHULT/ロースフルトや、すっきりとしたモジュールソファのHALVDAN/ハルヴダンのような、日本向けに特別に開発された製品もあります。

小さなグレーのモジュールソファHALVDAN/ハルヴダンと、ライトウッドと竹でつくられた家具。
イケア・ジャパンは、日本の狭いアパートメントにぴったりのモジュールソファHALVDAN/ハルヴダンなど、日本向けの特別な製品を複数開発しています。
屋上にいる2人。1人は大きな黒いバーコードのついた白いTシャツ、もう1人はイケアのロゴが入った白いパーカーを着ている。
2020年には、イケア初となる日本限定の洋服と雑貨からなるコレクション、EFTERTRÄDA/エフテルトレーダが登場しました。
バッグの形にデザインされたキーリング、黄色、ブライトピンク、白。それぞれブルーとイエローでイケアのロゴがデザインされている。
色とりどりの小さなFRAKTA/フラクタ キャリーバッグが付いたKNÖLIG/クノーリグ キーリングを最初に販売したのは、流行の発信地である原宿の都心型店舗です。

「イケアのソファのほとんどは日本の家には大きすぎるのですが、それでもお客さまはソファを欲しがります。ソファがあると一気に家らしい雰囲気をつくれますからね」と谷川 舞は説明します。照明器具への関心も、年々高まってきています。「自分の家に照明を置きたいと思っても、なにから始めたらいいのかわからない。そんな時には、イケアがお手伝いします」。

大きなショーウィンドウに、イエローとブルーのイケアの看板がある白い店舗のファサードが目立つ街区。
2021年、東京都心型店舗の3店舗目となるIKEA新宿がオープンします。

2度にわたる挑戦と試行錯誤を経て、特に2017年にオンラインストアを開始して以来、イケアは無事に日本での立ち位置を確立できたようです。2024年には、イケアストア(大型店舗)10店舗、都心型店舗3店舗、ポップアップストア20か所オープンしました。日本初の都心型店舗は、2020年に流行の発信地である原宿にオープンし、その後すぐに渋谷と新宿で2店舗がオープンしました。

都心型店舗に集まるのは、セルフレジで支払いを済ませたり、ビストロやレストランで日本とスウェーデンの食文化が融合した抹茶スイーツを味わうことを好む、若い世代の人々です。イケアは今回こそ、日本に根を下ろすことができたようです。

ドーナツからケーキなどのあらゆるスイーツ、トラディショナルな茶筅と器がテーブルにセットされている。
毎年恒例の抹茶 フェアでは、抹茶を使ったデザートが提供されます。トラディショナルなスウェーデンのフラットブレッドも抹茶を使ってアレンジされ、あんこやフルーツ、抹茶タルトなどのフィリングが添えられます。

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