1973年、カール・カーカーは輸出マネジャーとしてイケアに入社しました。「イングヴァル・カンプラードはイケアを世界中に広めたいと考えていました」と、現在88歳のカールは話します。入社早々に日本進出という未経験の難題を任されたカールは、まずは日本とのこれまでの関係性を見直すことから始めます。日本とイケアの関係は、イケアが日本の目覚ましい経済発展と急激な都市化に興味を持ち始めた1971年に始まります。当時の日本では、何百万人という裕福な消費者たちが、海外のモダンなホームファニッシングやトレンドに関心を寄せていました。
日本には大きすぎる
1回目の挑戦
1970年代初頭、イケアは日本市場への参入へと乗り出します。スウェーデン国外への進出は北ヨーロッパにおいて順調に進んでいたため、次は日本へと進出するのが自然かつ論理的な流れだと考える人が多くいました。イケアは、北欧デザインの伝統と、日本によく見られるシンプルさや木製の家具に共通点を見出したのです。
カールは、当時デザインマネジャーだったレナート・エクマークとともに、日本のフランチャイズ加盟店である大手家具会社と直接話すために東京へと向かいます。日本のパートナー企業は、北欧諸国や北ヨーロッパにあるようなイケアストアを日本でオープンすることに乗り気ではありませんでした。日本人が好むのは、より狭く、居心地がよいスペースでの親密な購買体験である。それを聞いたカールは、大型の百貨店などで「イケアコーナー」を30箇所ほどオープンしてみることを考えます。
サイズが大切
1974年、日本のフランチャイズ加盟店は、大型百貨店内で最初の小規模なイケアコーナーをオープンしました。新聞広告、地下鉄のポスター、世界初の日本語版IKEAカタログを使って大々的な宣伝を行います。しかしすぐに、売り場の広さだけにとどまらない、様々な面でのサイズの重要性に気付かされることになります。
「家具のデザインは受け入れられても、サイズが合わないと思われることがよくありました。ギリス・ラングレンのKON-TIKI/コンティキ イージーチェアの見た目は人気だったのですが、サイズが大きすぎたのです」とカール・カーカーは話します。日本の伝統的かつコンパクトなライフスタイルには、小型で時に多目的に使えるような柔軟性のある家具が求められていました。「人々は小さなアパートメントの中で暮らし、夜になると畳の上にマットレスを敷いて寝ていました」とカールは説明します。
スウェーデンへの高い関心
スウェーデンのホームファニッシングキャンペーンは、当初から日本のメディアの注目を集めていました。当時情報責任者を務めていたレイフ・ショーは、1970年代に日本人ジャーナリストがエルムフルトを訪れたときのことを、懐かしく思い出しながらこう書きます。「出版物やテレビ番組のため、家での暮らしについての特集を組んだ……クローゼットの奥底まで掘り返し、引き出しはすべて開けて、銀製品を引っ張り出し、靴下や下着の山を写真に収めたものだ」。 日本のジャーナリストたちは「スモーランド、スウェーデン、北欧、そしてヨーロッパの人々がおくる日々の生活について、東京や長崎の人々に知ってもらいたいと考えていたようだ」とラーズは書いています。
カール・カーカーは、レイフ・ショーが日本のプレスをスウェーデンに招いた際に企画を手伝った1人です。「彼らがスウェーデンに暮らす一般人の家を訪ねられるよう手配しました。しかも、ダーラナ地方ではその頃、ちょうどミッドサマー(夏至祭)が行われていたのです。いい宣伝になりましたよ」。
ついにイケアストアがオープン
その後、日本のフランチャイズ加盟店は東京で小規模なイケアストアをオープンすることを提案します。カール・カーカーによれば、イケアストア1号店に適当な場所として最初に提案されたのは、当時東京に数多く存在した、閉鎖されたボウリングセンターの1つだったようです。ボウリングブームはアメリカから日本に上陸し、わずか数年間で12万4,000レーンが設置されるほどの人気でしたが、日本ではトレンドの移り変わりが激しく、1970年代半ばになると、ボウリングに対する人々の関心は急速に薄れていきました。ボウリングセンターには誰もいなくなり、多くは百貨店やゴルフ用の複合施設といった、多目的な用途の建物に改装されました。最終的に、イケアと地元のパートナー企業は、当時とあるレジャー施設があることで有名だった、東京の東側にある船橋エリアでイケアストアのオープンに乗り出します。
1977年のグランドオープン6週間前、輸出アシスタントマネジャーのハッセ・サロモンソンが東京での準備作業に加わります。彼に同行したのはデコレーターのカール・ヨハン・アーンストロム。グランドオープン前の最終段階において、全体を整えながらイケアらしさを加えるのが仕事です。しかし、彼ら2人が日本に到着したとき、建設プロジェクトはまだ半分も終わっていない状態でした。「面積にして2,700平方メートルもの巨大な空っぽの倉庫に、陳列用の棚がいくつか置かれているだけでした。この状態からどうやって期限内に準備を終わらせるのか、見当もつきませんでした」と、現在81歳のハッセは話します。「でも日本のパートナー企業は、心配無用、私たちが何とかします、と言うだけでした。カール・ヨハンと私は、ただ流れに身を任せるしかなかったのです」。
グランドオープンには、開店前からお客さまの長蛇の列ができました。ハッセ・サロモンソンによれば、行列に並んだお客さまたちは、先着3,000名に配布される、ブルーとイエローで小さなヴァイキングの姿が描かれた無料Tシャツがお目当てだったといいます。広い店内で待機するハッセとカール・ヨハンは不安でいっぱいでした。「開店と同時に、お客さまがどっと押し寄せてきました。頭上では、まだ建設業者が梁の上を飛び回って作業している真っ最中だったのです」。
新しいイケアストアでは、ペン型スキャナーを使って値札を読み取る最新式の会計システムが導入されていました。ただ残念なことに、誰もその使い方について把握していなかったのです。「パートナー企業に雇われたコワーカーは家具に詳しい人々でしたが、彼らは会計システムについてはまったくわかっていませんでした。にもかかわらず、なんとかうまいこと切り抜けてくれたのです。一体どうやったのか見当もつきません」とハッセは語ります。
サイズが引き起こす問題
イケアの家具のサイズについての問題は、解決されないまま残りました。イケアの家具は日本の家ではかさばることが多く、商品を家に持ち帰るだけでも一苦労でした。カール・カーカーは、当時日本の都市で生活する人のほとんどは自家用車を持たず、移動は公共交通機関に頼っていたと話します。配送サービスのために日本の宅配業者を雇うと、コストがかかる上に業務が複雑になってしまいます。また当時のイケアのコンセプトを支えるDIY精神というのも、日本人のサービス観とは噛み合わない考え方でした。
日本では伝統的に、お客さまは大切なゲストとして扱われる存在でした。「おもてなし」、つまりホスピタリティの原則が強く影響していたのです。買い物に訪れる人々は、店内に足を踏み入れた瞬間から、お辞儀とともに出迎える店員の手厚いおもてなしを受けます。店側も、お客さまにより快適で便利な体験を提供するためなら、なんでもやろうとしました。当時日本で暮らしていた人々には、買った商品を自分で持ち運ぶ、つまり商品棚やセルフサービスエリアから会計レジまで、さらにはバスや電車に乗って狭い階段を上り、自宅まで持って歩くことなど想像もできなかったのです。そして極めつけに、購入した家具は家に帰ってから自分たちで組み立てなければならなかったのです!イケアでの試行錯誤を経て生まれた、こうすることで価格を低く抑えているんですよ、という主張は、日本人には到底受け入れられないものでした。
段階的な浸透
トラブルが起こること自体は、イケアにとっては予想されたことでした。プロジェクトの初期段階には既に、パートナー企業から、日本の生活環境に合わせた変更が必要になるだろうという話が伝わっていたのです。しかしイケアは、これをきっぱりと拒否します。コンセプトに忠実に、スウェーデンのものとまったく同じ品揃えで対応するという戦略には、今まで成功を収めてきた実績がありました。「パートナー企業との契約には、他の海外市場と同じ条件、つまりイケアブランドで販売できるのはイケア製品だけであるという条件が含まれていました」と、元輸出マネージャーであるカール・カーカーは話します。
学習コースは、VHSビデオに映る
イングヴァル・カンプラードの挨拶から始まった
1981年、東京により大規模な新店舗がオープンします。このとき雇われたコワーカーたちは、最初の2週間の間、業務終了後に行われる学習コースに毎晩出席することになりました。この学習コースでスモーランド地方の歴史を学び、『ある家具商人の言葉』の原則に基づき、より快適な毎日を、より多くの方々に提供するための考え方を深めていきました。学習コースはVHSビデオに映るイングヴァルの挨拶から始まり、「イケア流の販売」「機能主義」などの各モジュールに分かれます。何を考えるのか?なぜ考えるのか?「イケアが常識を変える!」のです。コワーカーたちは、日中は新たに学んだ知識を働きながら実践し、お客さまからの質問はメモに取って、業務終了後に話し合う時間を持つように奨励されました。
関係者全員の懸命な努力にもかかわらず、イケアが試みた日本への最初の船出は1986年に終わりを告げ、リテールサイトもすべて閉鎖します。フランチャイズ契約はその時点で既に終了していたにもかかわらず、本来のものとはまったく異なる商品が、イケア商品として日本のイケアストアで販売されていることも明らかになりました。1983年、イケアは日本でビジネスを続けること自体に向き合わざるを得なくなります。
カール・カーカーは、日本で起きた問題の大部分を占める原因は資本の不足にあると考えています。彼は、世界経済全体に影を落とした1970年代の石油危機が終わらないうちに、イケアが日本での事業展開に乗り出した点について指摘します。「日本で成功を収める上で必要な資本を投資する。そのための準備が、当時のイングヴァルにはできていなかったのでしょう。しかし、イケアはこの失敗から多くを学び、この経験を元にしてフランチャイズモデルを作り上げました。この後に続く香港やオーストラリアといった他の地域での事業展開は、はるかによい結果を生んだのです」。
イケアが再び日本に上陸する準備が整うのは、20年以上も先のことになります。ですが、その話はまた別の機会に。